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新潟地方裁判所 昭和47年(わ)174号 判決

被告人 小川守

昭二四・六・二五生 電気工

主文

被告人は無罪。

理由

(公訴事実)

被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四六年四月三日午後七時一〇分ころ、普通乗用自動車を運転して、新潟県東蒲原郡鹿瀬町大字鹿瀬一、〇三四の一番地先道路を津川町方面から鹿瀬町中心部方面に向つて、時速約五〇キロメートルで進行中、前方左右を注視し、道路状況に応じてハンドル、ブレーキを確実に操作し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然進行した過失により、道路が右に急カーブしていることに気付かず、直進し、自車を左側路外に逸脱させて、阿賀野川に転落させ、よつて、そのころ同所において、自車同乗者榊原幹雅(当時二一歳)を溺死するに至らせた。

(無罪理由)

右公訴事実は、これを証明するに足りる証拠が十分でないので、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言渡をする。

以下にその理由を詳説する。

第一、次の事実は、関係証拠により明らかである。

被告人と榊原幹雅(当時二一歳)とは親友であつたが、二人で長距離ドライブに行くべく、昭和四六年四月二日愛知県春日井市を出発し、被告人の兄小川昇所有名義の普通乗用自動車、名古屋五一さ四七一八を交互に運転して、国道一九号線を通つて長野県内に入り、同夜は同県内の旅館に宿泊した。翌三日は、国道一八号線で直江津に出、国道八号線で新潟市へ寄つたのち、会津方面に向い、主として国道四九号線を通つて、新潟県東蒲原郡津川町まで来たとき、当夜の宿をとるべく、津川町内で国道四九号線と分れて左折し、同日午後七時五一分ころ、同町と同郡鹿瀬町の境にある麒麟山の下を貫く「城山トンネル」を通つて、そのトンネルを出た地点、すなわち鹿瀬町大字鹿瀬一〇三四番地先で、県道は右へ急カーブしているのに、被告人らの乗つた自動車は直進し、県道崖下の阿賀野川の水中に転落し、車両は水没した。被告人は頭部に外傷を負いながら、車両から出て、川岸に辿り着き、付近の住民に助けられて、まもなく津川病院に収容された。翌四日午前九時から潜水夫およびクレーン車を使つて水没した車両の引揚作業が行なわれ、午前一一時過ぎころ引き揚げは終つた。榊原幹雅の溺死体は、同車の後部座席から発見された。

第二、右のように、現場に転落した車両には、被告人と榊原の二名しか乗つていなかつたことは明らかであるから、そのどちらかが当時車両を運転していたものと思われ、また現場の道路状況から見て、運転者が夜間前方注視を怠り、県道が右に急カーブしているのに気付かず、自車を直進させた過失によるものと推認される。

第三、検察官は、事故当時、車両を運転していたのは被告人であつて、榊原は後部座席で坐り、あるいは横になつていたと主張し、弁護人、被告人は、当時車両を運転していたのは榊原であつて、被告人は助手席に坐つて前方を見ていたのである、と主張する。

第四、被告人、目撃者その他関係人の供述を除いた客観的証拠について

一、先づ、被告人の有罪を支持する証拠について、検討する。

(一) 榊原幹雅の遺体が自動車の後部座席から発見されたことは、同人が事故の前から後部座席にいたことを一応推定させる。

もちろん水流などの影響で榊原の身体が移動することはあるとしても、しかし移動するよりは移動しないことの方が、よりありうることである。ことに、証人東弘の供述によると、潜水夫である同人が河底に潜つて、車体の位置を確認したとき、榊原の遺体がすでに後部座席にあつたことを確認した。そして、車体を引き揚げた際、榊原の右足先は前部座席のシートと床との間に挾まれていたのであるが、東弘が河の中で車中から遺体を引き出そうとしたときにも、遺体が動かなかつたというのであるから、遺体は既に河の中にあるときから、足先がシートに挾まれていたものと一応推定できる。そうしてみると、榊原が事故前から後部座席にいたとすると、事故の際または事故後に、床に延ばしていた脚が前部座席のシートに挾まれる結果となる可能性は大きいが、もしも同人が事故前に運転席にいたとすると、水没後に同人の身体が浮動して後部座席へ移つたのち、足をシートの下に挾まれることとなるのであつて、そのような可能性は少ないものと考えられる。

(二) 遺体は靴下は履いていたが、靴その他の履物は履かず、証人榊原栄一の供述によると、足元の床に榊原幹雅の草履が落ちていたという。ところで、ドライブ中、靴下のまま履物を履かず、あるいは草履履きのまま運転することは普通ありえないと思われる。運転者は通常皮靴またはズツク靴を履くものであるが、皮靴やズツク靴を履いていた場合、これらの履物は、ことさら脱ごうとしなければ、水中でもたやすくは脱げないものであろう。そこで、本件の場合、遺体が履物を履いていなかつたことは、榊原が運転をしていなかつた有力な証拠と見てよい。また同人が事故後、自分の意志で履物を脱ぐ余裕があつたとすれば、その間車外へ脱出を試みたはずであつて、運転席からわざわざ後部座席へ移る必要はなく、破壊された運転席前面の窓からでも脱出できたものと思われる。

(三) 弁護人は、後部座席には毛布、雑誌、修理工具、菓子箱などが置いてあつて、人が坐る余地はなかつたと主張する。しかし、それらの物品の中には、リヤウインドーの内側や、床に置くことができるものもあるはずであつて、そのようなものがあつたからといつて、人一人が坐る余地がなかつたとはいえない。

(四) 弁護人は、友人同士二人でドライブするときは、運転しない者は助手席に坐るのが普通で、後部座席に坐ることはない、と主張する。一般論としては、そのとおりである。しかし、長距離ドライブの際、運転しない者が後部座席で横になつて(もし座席に物品が置いてあれば、半身だけ横になつて)休けいないし仮眠することは、ありうるものと思われる。

二、しかしながら、右のように被告人の有罪を支持する証拠に対し、これに疑問を抱かせる証拠も存在する。

(一) 本件車両が水没した場合、前面ガラスやリヤウインドーの破損箇所やその他車体の隙間などから流入する水の力は強かつたと思われるうえ、当時阿賀野川は雪融け時期で水嵩が増し、ことに現場近くでは水流が渦を巻いていたから、車両が河底に着いた後に車内を流れる水流もかなりあつたと思われる。そうすると、事故で一瞬気を失つた榊原の身体が運転席から後部座席へ水流によつて移動することも、ありえないことではないと思われる。

(二) 被告人の供述によると、本件ドライブは突然思い立つたもので、そのルートも、佐渡へ渡ろうとして新潟市まで来たところ、フエリーの運賃が高かつたので、それを断念して、会津へ向うなど、行き当りばつたりであるうえ、宿もその場で選ぶ有様で、四月三日の日も夕方七時を過ぎて、津川町内で麒麟山温泉の矢印を示す標識があつたので、そこに宿をとるべく、国道四九号線を離れて、本件現場へ向つたという。被告人のこの供述を嘘と断定することもできまい。そして本件現場は、麒麟山温泉街の直前である。してみると、たとえドライブの途中、榊原が後部座席で休憩ないし仮眠していたとしても、その後、これから今夜の宿をどこにしようかと相談しなければならない段階になつても、なお後部座席で横になつていたと考えることは、いささか不自然に感じられる。

(三) 本件車両が、県道から水面まで落下する途中、崖の途中に生えている杉の立木の幹にその右前部が激突したことは杉木立と車両の損傷、付近住民の供述により明らかである(高橋証人は左前部が立木に衝突したと供述するが、記録二四丁の写真ならびに証拠としては排除されたが、記録一〇七丁裏の写真によれば、車両の右前部が衝突したと見る方が自然である。)。しかし、車体の損傷は右前部より左前部の方が甚だしい。そこで、可能性としては、運転席にいた者も、助手席にいた者も、ともにこの衝撃で外傷を負うことは可能である。

ところで、被告人には頭部、顔面に切創があり、後の検査でかなり重い頭蓋骨折があることがわかつた。弁護人は、被告人のこの傷は、助手席にいた被告人の頭が運転席のルームミラーに激突したため生じたものであると主張する。この主張をそのまま肯認するには証拠が足りないが、しかしそのような可能性を否定することもできないと思われる。

なお、榊原の遺体には、左膝と右耳奥に外傷があるが、それがどのような理由で生じたかはわからない。また遺体が解剖されていないため、外部から見えないところに傷害があるか否かもわからない。したがつて、軽々しい判断は差し控えるべきである。

第五、被告人の言動に関する証拠について

一、本件車両が転落の途中杉木立に激突した音や、川の中から救けを求める被告人の声を聞いて駈けつけた人達、とくに麒麟山温泉街の料理店「徳芳」の経営者徳田力子、同店のお手伝い須貝千代ノ、熊倉ウメ、同店へ大工工事に来ていた高橋正夫らは、救助された被告人が崖を登つて来る途中あるいは県道上へ上つてから、「車の中にもう一人いるから助けてくれ。」「僕が運転して来た。」といつたと証言している。これら四人の供述は細かい点で喰い違いがあるが、事故当時から証人調べまでに時日が経つていることから考えて、喰い違いを重要視すべきではなく、大筋で一致している点をそのとおり信用することができる。もつとも当時現場へ同じように駈けつけたすし屋の経営者江部松栄は、被告人が自分が運転していたと発言したことは聞いていないと供述するが、同人は終始被告人の傍にいたのではなく、警察へ電話すべく自宅へ駈け戻つて、数分間現場を離れたこともあつたのであるから、被告人の右発言を聞いていないとしても、他の証人の供述と矛盾するとは思われない。そして、被告人が右の発言をしたのは、事故後恐らく数分間しか経つていないころであるから、自分の発言の及ぼす利害得失を考えるような状況でもない。従つて、この発言は被告人の真情を吐露したものとして、証拠価値は高いものと考えられる。

二、しかしながら、右の証拠に対しても、次のような矛盾した証拠が存在する。すなわち事故当夜、被告人が津川病院に収容されたあと、津川警察署の石川富博巡査が病院へ出向いて、被告人に事情を聞いたところ、被告人は、運転していたのは自分ではないと答えたというのであり、(加藤文夫の第一回証言)、また当夜被告人を看護した津川病院の看護婦清野泰枝は、当夜なんぴとからか、運転していたのは被告人以外の者であると聞き、被告人がその者の安否を非常に気遣つているようすであつたと観察し、その旨を看護記録に記載した。また四月四日付新潟日報(朝刊)には、「小川さんの話では、この車は……榊原幹雅さん(二一)が運転していたというが……」との記事が掲載されている。さらに、四月五日付新潟日報(朝刊)の記事および加藤証人の第一回証言からみて、津川警察署の渡辺次長が同月四日新潟日報津川支局員に対して、警察では車両を運転していたのは榊原であると認めている旨発表したと推定される。

ところで、この事件の生存者は被告人しかなく、遠距離ドライブ先のこととて、親戚知人もいなかつたのであるから、被告人の口以外には、運転者が被告人ではなく、榊原であるという情報源は考えられない。してみると、右の情報はすべて被告人の口から出たものと推認される。ところで、被告人のこの発言は、事故当夜の事故後数時間内になされたものであるが、この段階でも被告人は将来の利害得失を考えて行動していたとは思われない。そこで、被告人のこの発言と、事故現場で救出直後の発言とを矛盾なく説明するためには、事故現場では被告人はまだ意識が清明であつたが、その数時間後の発言のときは意識が混濁していたとでもいわざるをえないことになる。しかし、そのように断定してしまうのは危険であろう。

してみると、被告人の事故直後の現場での発言だけをとらえて、有罪の決め手とするには、やや足りないといわなければならない。

三、事故の翌日車両が引き揚げられた後、午後四時ころ津川警察署加藤文夫交通課長が津川病院で被告人を取り調べたところ、被告人ははじめ自分が運転していたことを否定していたが、榊原の遺体が後部座席にあつたことを聞かされた後、間もなくこれを認め、さらに同日午後八時ころ津川警察署内でも被告人は加藤課長に対し、自分が運転していたと供述したことが認められる。

ところで、当時の被告人の病状であるが、津川病院看護婦清野泰枝の供述、同女作成の看護記録、被告人が春日井市に帰つた後入院した医院の医師北秀之の供述ならびに被告人の公判廷での供述によると、被告人は本件事故により後頭部に亀裂骨折を負い、脳挫傷の疑いがあり、顔面蒼白で強い頭痛があり、他人に抱きかかえられなければ歩けないような状態にあつた。かような状況の下で重症患者を被疑者として取り調べるには細心の注意が必要であつたと思われる。ところが加藤課長の取調はかような点を配慮した形跡がなく、かなり長い時間にわたつて取り調べた事実があり、(病室での取調の始めから、現場への同行を挾んで、津川署での取調の終りまで、恐らく三時間以上はかかつているものと思われる。)被告人がその間苦痛を感じたであろうことは想像に難くない。加藤課長の取調ぶりは、健康な状態にある被疑者に対してならば許されるものであつたと思われるが、右の病状に照らすと、同課長の取調は被疑者にとつて強制と感じられる疑いがあり、結局被告人の加藤課長に対する自白は強制に基くものではないかとの疑いを拭いえない。従つて、右自白については、証拠能力を認めるべきではない。

なお被告人の病状を右のように判断したのは、清野泰枝、北秀之の供述など客観的立場にある証人の供述によるものであつて、もつぱら被告人の立場を強調する被告人の兄小川昇や義兄松葉義人の一方的供述を信用したためではない。小川昇や松葉義人の供述は、被告人の病状を誇張していることは明らかである。とくに小川昇は被告人の病状を軽く考えて、重症の被告人を自動車に乗せて愛知県まで連れて帰るなど、無謀かつ強引な行動に出ながら、他方被告人に対する警察官の取調がきついと抗議したと供述するなど、その供述は矛盾しており、同人の供述は到底信用できない。

四、被告人が四月五日に春日井市に帰つてからの、被告人の挙動については、その中に被告人が自分の罪責を認めていたと解されるものがないではない。しかし四月五日朝被告人が榊原宅を訪問したとき、被告人が申し訳ないという態度を示したという榊原栄一(幹雅の父)の証言は、同人が当時被告人に悪い感情を抱いており、のちに損害賠償請求訴訟の相手方ともなつた関係もあつて、感情が交つていないとは言えない。また被告人が春日井市の病院に入院中、見舞に来た友人らに対して、見せた態度、すなわち、榊原に対し悪いことをしたと、後悔の気持をあらわした態度も、かなり象徴的、寓意的なものであつて、端的に自分が運転していたことを認めたものでないだけに、色々と解釈の余地がある。

これら春日井市へ帰つてからの、被告人の言動、および被告人の兄小川昇ら並びに榊原栄一らが示談交渉の過程に見せた言動等に関する証拠、ことに民事訴訟の当事者のどちらかの側に近いと見られる者の証言は、もともと余り証拠価値の高いものではないので、一々ここに言及しない。

また、自賠責保険金の請求に際して、車両の所有名義人である小川昇の側で、運転者が被告人であると記載した書類によつて保険金を請求することに異議を述べなかつたことや、愛知県公安委員会が被告人の運転免許を取消したのに対して被告人が不服を申し立てなかつたことも、さほど重要なことがらではない。

第六、本件捜査の過程

一、事故直後、津川警察署交通課長警部補加藤文夫は、他の署員とともに現場に来て(ただし、被告人はすでに病院へ運ばれたあとである。)、同日午後七時三〇分ころから約一時間須貝千代ノを立会人として実況見分を行つた。この段階で、加藤課長は、須貝千代ノらから、被告人が助け出された直後、現場で車両を運転していたのは自分であると告白したという情報を入手した。一方、同課長は当夜部下の石川巡査を病院へやつて、被告人から事情を聞いたところ、車両を運転していたのは自分ではないという供述を得た。加藤課長は被告人の病院での供述を信用しなかつたというが、それは捜査官として当然であろう。ところが、どういうわけか、翌四月四日中に同警察署渡辺次長は、新潟日報記者に対して、運転者は榊原であるとの発表をした(本件記録でうかがう限り、当時津川署では、署長、次長、交通課長がばらばらに行動していたと見られる節がある。)

四月四日午前九時から、水没した車体の引揚げ作業が行なわれ、加藤課長らもこれに立ち会い、午前一一時ころ車体が川岸に引き揚げられたが、その後部座席から右足先をシートに挾まれた榊原の遺体が発見された。これを見た加藤交通課長は、被告人に対する嫌疑を益々濃くしたというが、それは当然である。

同課長は同日午後四時ころから病院の医師の許可の下に、病室で被告人の取調を行つた。被告人ははじめ運転していたのは自分ではないと否認したが、榊原の遺体が後部座席にあつたことを知らされて後間もなく、運転していたのは自分であると自白するに至つた。この自白の証拠能力が否定されることは先に述べたが、しかし、取調をすること自体は止むを得なかつたものと思われる。

すなわち当時の被告人の病状は、春日井市の医師北秀之の証言によれば、頭蓋骨折により絶対安静を必要とし、愛知県まで自動車に乗せて連れ帰ること自体無謀であつたというのであるが、津川病院の医師は被告人に頭蓋骨折はないと判断していたし、被告人の兄小川昇は津川では被告人の看護に不便であるから、是非地元の春日井市へ連れて帰つて治療したいと強引に申し出ており、これに対して津川病院の医師は強くは引き留めなかつたこと、同病院の医師が警察官の取調を許可したという事情がある。捜査主任官である加藤課長としては、かような病状の被告人を逮捕することもできず、さりとて、被告人が愛知県へ帰つてしまつては取調も困難であるので、被告人が津川にいる間に取調べて自白を得たいと焦つた気持になつたことは、それなりに理解できる。そこで同課長は病室での取調のあと、他人にかかえられてやつと歩けるような被告人を車に乗せて現場へ同行し(このときの加藤課長の現場での活動が実況見分といえるようなものであるか否かについては、疑問がある)、次いで津川署内でも被告人を取調べて自白を得、当日被告人の自白調書を、病院での取調の分と津川署での取調の分と二通作成した。

しかしながら、本来捜査官としては、本件が死人に口なしといわれるような事件であるうえに、すでに事故当夜から被告人は自白と否認の相反する発言をしており、翌四日にも否認ののち、捜査官の示唆(榊原の遺体が後部座席にあつたこと)で自白するに至つた経緯を考えて、将来の捜査の困難さを予想し、車体の差押や遺体の解剖を考えつくべきであつた。当時榊原幹雅の父栄一は、息子の遺体を早く春日井市へ持ち帰りたいといつていた事情から、死体の解剖は人情的にやりにくかつたかも知れないが、少くとも車体の差押はすこぶる簡単であつた。ところが加藤課長は、そのどちらも考え及ばなかつたのである。

二、以上は、加藤課長が捜査官としての注意力にやや欠けるところがあつたというだけであつて、それほど強くは責められまい。ところが、同課長はその後とんでもない証拠のねつ造を考えついた。すなわち須貝千代ノを立ち会わせた実況見分は事故当日の午後七時三〇分ころからであり、被告人を現場へ同行したのは翌四日午後七時過ぎころで、その間に約二四時間の隔たりがあるのに、あたかも四月三日夜間課長の面前で須貝千代ノと被告人が対面したかのように仮構し、須貝千代ノが被告人を指して、「川の縁にこの人が血を出してつかまつていた。」「その後来た人に、この人は助けられたが、そのとき『私が運転して来た。もう一人車の中に入つているから、助けてくれ。』と言つていた。」と説明した旨、実況見分調書に虚偽の記載をした。さらに、同課長は、被告人を現場に同行したのは、車両と遺体が引き揚げられてから約七ないし八時間経つてからであるのに、あたかも車両がまだ水中に沈んでいるかのように仮構し、被告人が現場で、「榊原は助手席に乗つていたような気がするが、車が河の中に落ちた後も上つて来ないところを見ると、まだ車の中にいるものと思う。」と指示した旨、ならびに被告人の指示により、同課長が「川面からすかしてみたが、それらしいものは発見出来なかつた」旨、それぞれ虚偽の記載をした。実況見分調書については、証拠能力が広く認められ、一般にその記載内容は信用が置けるとされている実情のもとで、かかる証憑の偽造をした責任は重大である。

加藤課長はこのように書類の体裁を整えたうえ、一件記録を新潟地検に送致し、同地検はこの事件を素直な自白事件とみて、被疑者の現在地を管轄する名古屋地検へ移送し、同地検で被告人を取調べたところ否認したので、新潟地検へ逆送し、新潟地検交通係の飯田英男検事は事故の約半年後に津川署へ乗り込んで、自ら目撃者の取調に当り、本件を起訴するに至つた。しかし、同検事は加藤課長が実況見分調書をねつ造したことまでは見抜くことができなかつた。

なお同課長は、平気で嘘をつく男という印象を拭えない人物で、当裁判所の証人としても、色々の点でその場限りの無責任な供述をした。とくに榊原が車を運転していた旨の新潟日報の記事は当時読んだことがなく、後日名古屋地方裁判所民事部に証人として召喚された段階で始めて知つたと供述したが、右は客観証拠に符合せず、偽証とみられる。

上述のとおり、本件では捜査官(といつても検察官ではなく、警察官であるが)の手は余りにも汚れている。そこで、かように汚れた手で集められた証拠を排除しても、なお被告人の有責が明々白々な場合でない限り、被告人に有罪を宣告することは、国民の正義感にもとるといわなければならない。

第七、総括

いうまでもなく、刑事訴訟で有罪を宣告するには、合理的疑をさしはさむ余地のないほど、被告人の罪責が証明されたことを必要とする。この点が証拠の優越で足りる民事訴訟と異なる点である。本件では、被告人の有罪を支持する有力な証拠もあるが、なお合理的疑いを容れる余地が残つているので、被告人には無罪を言渡さざるを得ない。本件の事実認定と、榊原幹雅の相続人榊原栄一らを原告とし、被告人および車両の所有名義小川曻を被告として、争われている民事訴訟での事実認定とは、それぞれ独立であることは、いうまでもない。

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